正直に自分の無知を認めることが大切だ。
そうすれば、必ず熱心に教えてくれる人が現れる。
ウォルト・ディズニー
友達の話を聞いたり、仕事での話。
知らない=舐められると思って
知ったかぶりしてしまうこと、あります・・・。
でも、謙虚な姿勢で、
「なになに?知らないから、教えて欲しい!」
と聞けることの方が
何倍も素敵かもしれない。
数あるブログの中から見つけていただき
ありがとうございます。
「一日一善」をモットーに
少し笑えてタメになる情報発信を目指している
わらタメです。
今日は、お馬さんとお水、の話です。
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あの人が悪い。
わたしは悪くない。
あの人は間違っている。
わたしは間違っていない。
すごくイライラすることでも
ちょこっとイラッとすることでも
こういう対立構造って、
すぐに生まれてしまいます。
言葉にしなくても、自分の中で。
「過去と他人は変えられない」
この言葉、
他人は変わらないから、諦めろ。
ということではなく
変わるかどうか決めるのは相手の課題
ということなのではないか。
それを説明するのにわかりやすい例えが
「お馬さんと水」なのです。
あなたが、お馬さんと一緒に放浪していると想像してください。
そろそろお水を飲ませなきゃ、と思って
水辺に連れていきました。
でも、お馬さんは今そんなに喉が渇いていないから
水を飲みませんでした。
あなたは、お馬さんに水を飲むことを強要することができますか?
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」
すごく簡単な例えですが、「これは誰の課題なのか?」「他者の課題には踏み込まない」ということを凄くわかりやすく教えてくれる、いい例だな、と思いました。
「嫌われる勇気」に出てくる
「課題の分離」のお話でした。
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上の子(わら太郎)が3歳になり
そろそろ習い事始めなきゃいけないのかな・・・
と漠然とソワソワしていたこの頃。
例えば、わら太郎が「サッカーやりたい!」と言ったとして、
親としては「野球をやって欲しいんだよな・・・」と思っても
決めるのは、わら太郎の課題。
しかも、習い始めて2〜3ヶ月経って、「やっぱりやめる!」と言っても
継続は力なりだから、続けなきゃダメでしょ。もうちょっと頑張りなさいよ!
と言ったところで、本人の思いは変わらないかもしれない。
でも、それを「そうだねそうだね。」と思考停止で放任し続けるのではなく、
・サッカーを続けたらこんな未来が待ってるかもよ?
・次は野球をやってみるのはどう?
・またやりたくなったらサッカーやってみるのもいいかもね
・テニスも楽しいよ
などなど・・・
選択肢やきっかけを提供すること。
でも、実際にどうするかは、子供が決めること。子供の課題。
親の期待に沿う選択ではなく、自分が信じる最善の選択をしてもらえたらいいな。
その手助けをするのが、親の役目なのかな、と、そう思いました。
今日も最後までお読みいただきありがとうございます。
お馬さんを水辺に連れていくことなんてないけどな、の
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今日も皆さんにとって
素敵な一日となりますように。